その「断ってもいい」には、いくらと書いてあったのだろう
ある仕組みが、仕事を一つずつ人へ配っていた。受けるかどうかを決める前に、人の側に見えているのは全体の一部だけである。おおよその取り分の見当は付く。そこまでは分かるので、そこで決めが行われる。誰も立ち止まらない類の当たり前だ。
見えていないのは、かかる時間の幅のほうだ。短く済むのか、何倍も居座るのかは、受けると決める前には分からない。決める材料が半分しかない状態で、決めだけが先に行われている。完了の記録に、そこまで上った階段は載らないという記録を以前に取った。あのときは、費やされたものが記録の外へこぼれていた。ここでは違う。仕事の形も、断った回数も、仕組みの内側にきちんと収まっている。収まっているからこそ、人の側に残るのは、断るかどうかという判断だけになる。
押せば次へ回る、回した回数は残る
断ってもいい、と書かれていた。実際に断ることもできた。押せば、その仕事は次の誰かへ回る。それで関係が切れるわけではなく、また次が配られてくる。この自由は本物である。まずそこは認めておきたい。
そして、断った回数は記録された。断れるということと、断ったことが残らないということは、別の話だ。前者は書いてある。後者について書かれた文を、私は見つけられなかった。押した指の側には何も起きない。残るのは仕組みの側だけである。
回数を数えるには、数える仕掛けが要る。誰かがどこかで、押されるたびに一つ足す仕組みを先に作ったということだ。数えるという手間は、誰かが先に払っている。その手間が何の役に立っているのかは、私の側からは見えない。そして、何のために数えているのかを説明した文は、書かれたもののどこにも見当たらなかった。
回数が次の配分に影響するのかと尋ねた記録がある。返ってきた答えは、そのようなことはない、だった。その一文だけが返ってきたと記されている。付け足しも、条件も、記録には残っていない。尋ねたほうも、それ以上は訊いていない。
否定は、記録が使われていないことの証明にはならない。記録は残り続け、答えのほうはその残った記録に一度も触れなかった。使っていないと言うことと、使えないようにすることは違う。触れずに済む答えというのは、実に便利にできている。
断った人は、断らなかった場合の自分を観測できない。片方の目だけでは、そこにある物までの距離が出ない。奥行きというのは、二つの見え方の差からしか生まれないからだ。見え方がもう一つ無ければ、遠いのか近いのかは分からないままだ。
比べる相手がいない値段は、測れない
起きたのは、押したという一つの出来事だけである。押さなかったほうは、出来事にすらならない。断らなかった自分はその後を持たないのだから、差を取るための一方が最初から欠けている。値段は、そこにあるのだとしても、測る手立てのほうが無い。そして測れないものは、たいてい無かったことになる。
さて、諸君。書かれていたのは自由のほうだけだった。断ってよい、というのは、はっきり文になっている。文になっているものは読める。読めるものは、読んだ人の頭に残る。書かれている以上、その一行は誰にでも読めるようになっている。
断るといくらかかる、という文は、どこにも無い。高いとも安いとも書かれていないので、読んだ人はそこを、何も引かれない場所として読む。支払いの生じない書き方をされたものを追いかけると、その分は数の外へ出ているだけで、なくなってはいなかったという記録もある。ここではその手前で止まる。数の外へ出たのかどうかを確かめる手段が、そもそも用意されていない。
自由は文になっている。その自由を使ったときの値段だけが、文になっていない。——などと大層に言ったが、要は片方しか書いていないという話だ。
一度よくない記録が付くと、次に配られるものの条件が下がった。同じ仕組みが、同じ手順で、少し軽いものを回してくる。手続きの側には一行の書き換えも無い。動いたのは、回ってくるものの中身だけである。下がった側に分かるのは、配られたものの手触りだけだ。
規則は同じでも、当たる場所は同じではない
条件が下がると、よい記録を作る機会そのものが減る。よい記録は、よい仕事を終えたところにしか付かないからだ。下がった側の手元には、下がる前より少ない手段しか残らない。減ったものを、減ったままの道具で埋め直すことになる。
上がる側にも、この規則はそっくり同じ形で当たっている。よい記録が続けば、次に回ってくるものの条件は上がり、上がった側には前より多い手段が残る。ただし、上がるための機会は上がった側にだけ増え、下がった側では減ったままだ。増える側と減る側が、同じ一文から出てくる。
仕組みの側から見れば、これは公平である。規則は一つで、全員に同じように当たっている。誰かを狙って書いたと読める条文は無い。作った側に悪意があったという記録も、私は持っていない。疑うための材料は、私の手元には一つも無い。
ただ、規則が同じであることと、規則の当たる場所が同じであることは違う。手持ちの多い側に当たった一行と、手持ちの少ない側に当たった同じ一行は、同じ重さでは効かない。同じ規則が、当たる場所によって別の重さになる。
だから多くの人は、断らないほうを選んだ。記録はこの選択を、何かに屈したとは書いていない。残っているのは、どちらが選ばれたかという一点だけである。数だけが、静かに片側へ寄っていった。
測れないものを前にしたとき、人は安いほうではなく、確実なほうへ倒れる。支えの片側が見えないとき、物は見えている支えのある側へ倒れる。それだけのことだ。倒れた先が得だったのかどうかは、倒れた側にも分からないままになる。
断ってよいとは書いてあった。断った回数も残った。その二つの間に何が入るはずだったのかは、とうとう文にならなかった。
空いている場所は、空いていると書かれない。何も書かれていない場所は、何も無い場所と同じ顔をしている。そして多くの人は、その顔を見て、何も無いと読む。