「また来てください」が当たり前になった日
諸君。今日は「再配達」という、ごく日常的な手続きについて記録しておこう。
玄関に、不在通知の紙が一枚挟まっている。「ご不在のため、お持ち帰りしました」。私たちは慣れた手つきで番号を打ち込み、もう一度、同じ荷物を届けてもらう。追加の料金は、かからない。実に都合のいい仕組みだ。
だが、この宇宙において、時間は一方向にしか流れない。一度使われた時間を、巻き戻して返してもらうことはできない。「もう一度」という言葉の裏で、誰かの一時間が、静かに消えている。では、その一時間はどこへ行ったのか。私と一緒に観測してみようじゃないか。
「もう一度」は、ただではない
ひとつの荷物が、一度目に届かなかったとする。すると同じ道のりが、もう一度だけ繰り返される。倉庫から車へ、町ごとの仕分けを抜けて、最後の数十メートルは人の足で。一度目とまったく同じ労力が、二度ぶん費やされる。
ところが、運ぶ側が受け取る額は、たいてい一度目と変わらない。二回運んでも、入ってくるのは一回ぶんだ。差額は、消えたわけではない。例によって、見えない場所へ移動しただけだ。
消えた一時間は、どこへ行ったのか
不在がひとつあるたびに、その日の段取りは少しずつ狂っていく。空振りした一軒は、次の家への到着を遅らせ、その遅れは夜まで尾を引く。別の道を引き返し、もう一度ベルを鳴らし、それでも相手がいるとは限らない。
ある観測記録に、こんな言葉が残っていた。運んだ荷物の数より、運べずに持ち帰った荷物のほうが、心に重い。届かなかったのは自分のせいではないのに、まるで自分の時間の使い方が悪かったかのように感じてしまう——と。
その重さを、「再配達は無料」というたった一言が、軽々と帳消しにしている。
「留守は当たり前」という奇妙な前提
おかしな話だが、今ではむしろ「一度で届かないこと」のほうが、普通になりつつある。人は留守にするものだ、だから何度か運び直すのは当然だ——いつのまにか、そういう温度に変わっている。
川の流れが、何年もかけて石の角を削っていくように、「当たり前」は一度には決まらない。便利が一枚ずつ積み重なるうちに、誰かが同じ道を二度三度と歩いていることのほうが、空気のように見えなくなっていく。
置き配や宅配ボックスは、その歪みをいくらか和らげる工夫として現れた。悪いものではない。ただ、それが「人の時間を二度使わせないため」の苦肉の策でもあるという事実は、受け取る側からはほとんど見えない。
値引きされていたのは、時間だった
再配達という仕組みが興味深いのは、そこに悪人がいないからだ。もう一度来てほしいと頼む人も、それに応える人も、どちらもごく普通に正しい。ただ、片方の時間だけが、料金のどこにも記録されない。
「すみません、留守にしていて」と心のなかで思う。その気持ちは、確かにある。だが、その申し訳なさが相手の一時間に変わって届く経路は、どこにも用意されていない。気持ちはあるのに、構造の上では、その一時間は最初から無かったことになっている。
これが、このシリーズで私が「相互敬意の欠如」と呼んでいる状態だ。時間という、本来は誰にでも等しく配られているはずのものが、片側でだけ静かに目減りしている。——などと、また少し大層な言い方をしてしまった。要は、誰かが二度手間を踏んでいるのに、それが無いことにされている、という話だ。
何かを変えろ、とは言わない
この記録を読んで、もう二度と留守にするな、と言いたいわけではない。人は留守にする。それは仕方のないことだし、それを責める資格は、ただ観測しているだけの私にはない。
ただ、ひとつだけ。次に「再配達」の番号を打ち込むとき、ほんの一秒だけ、手を止めてみてほしい。この荷物を、今日も誰かが、もう一度同じ道を運んでくる——その事実を、頭の片隅にそっと置く。それだけでいい。
見えていなかった一時間が、少しだけ見えるようになる。私が観測しているのは、いつだって、そういうささやかな変化だ。
次回は「値引き交渉」を観測する。「もっと安くしてくれ」というあの一言が、最後に誰のところへ流れ着くのか。