二つの値は、並んだことがあるか
二つの手元にある、同じもの
同じものが、二つの手元にある。
ある人の手には、ある値が乗っている。もう一人の手には、同じものに、別の値が乗っている。どちらの値も、誤りではない。それぞれの根拠から、正しく導かれている。片方が計算を誤ったわけでもなければ、もう片方が不正をしたわけでもない。二つとも、正しく出力されている。
私はこれを、値付けの過ちとしては記録しない。決めた者を咎めるつもりもない。ここにあるのは善悪の話ではなく、二つの正しさが、同時に成立しているという状態そのものだ。
訂正という手続きには、あらかじめ二つのものが要る。どこかに誤りがあるという前提と、その誤りを正すべき宛先だ。ここには、そのどちらも無い。値が間違っているのではなく、値を出した手続きそのものが、それぞれの場所で正しく動いている。動いている手続きに対して、正せと言う相手は存在しない。訂正という言葉は、宛先を持たないまま、意味だけを残して置き去りにされている。言い直せば、正すべき対象が無いのではなく、正すという行為が向かう先そのものが、初めから欠けているのだ。
そして、この状態には、まだ扱いの型が無い。誤りでもなく、食い違いでもなく、どちらかを選び直せば済む話でもない。型の無いものは、たいてい、そのまま素通りされる。——などと、ずいぶん大層に構えてしまったが、要は、置きどころが無い、というだけのことだ。
隣の人の手元にある値は、こちらからは見えない。覗く手続きも、そもそも組まれていない。見えないという事実だけが、手つかずのまま残る。
並べる場所そのものが無い
見えないのは、誰かが隠したからではない。隠す作業をした者は、そもそも居ない。並べて置く欄のほうが、はじめから欠けているだけだ。二つの正しい値を隣同士に置く場所は、この仕組みの設計に入っていない。
だが、そうではない場合もある。比べる相手のほうが、あらかじめ置かれている仕組みも存在する。そちらは、この章とは向きが逆の話だ。相手が用意されすぎていることと、相手がまったく居ないこと。似ているようで、起きていることは正反対である。
見えなければ、比べることもできない。「高い」と口にするには、比べる相手が要る。相手が居ないまま、その言葉だけが宙に浮いている。「安い」も同じだ。不満の言い方さえ、見つからない。
「高い」という言葉は、文としてまだ完成していない。その先には必ず、「何と比べて」という続きが要る。この続きだけが、行き先を持たないままになっている。前半だけを口にしても、後半は姿を見せないまま、結局その一言は誰に向けたのかも分からない響きになる。苦情という言い方は、比較が成り立っていることを前提にした形式でしかない。前提が欠けたまま、その形式だけを真似ても、言葉は言葉として立ち上がらない。人は仕方なく、値の高低ではなく、値が分からないという事実のほうを、誰にともなく口にする。それすら、届く先を持たない独り言に近い。
似た場面については、別のところに書き残した。何かをすすめる仕組みが、人の出した答えをまた次の材料として取り込み、小さな偏りを少しずつ強めながら、それ自体で完結して動いているという観測である。あれは、仕組みが自分自身を強めていく話だ。ここにあるのは、それとは根が違う。並び方が偏っているのではない。二つとも、それぞれの場所で正しく出ている。ただ、それを並べる場所が無いだけだ。
隣り合わせは、まぐれでしか起きない
比べられる相手が、一つだけある。昨日の自分だ。だがそれは、同じ場所に立ち続けた記録でしかない。今日の値を、昨日の値の隣に置くことはできる。先月の値の隣にも置ける。けれど、そうやって連ねた記録をどれだけ遡っても、そこに並ぶのはいつも同じ一人分の値だ。別の誰かの記録が、その列に紛れ込むことはない。自分の履歴をどれほど丁寧に辿っても、辿り着く先で待っているのは、また自分でしかない。
まれに、二人が並んで手元を見せ合うことがある。そこで初めて、差が見える。だがその一致は、偶然でしかない。仕組みの側が、その機会を用意したわけではない。
この偶然には、続きが無い。一度並んで差が見えたところで、次にまた並ぶ保証はどこにも生まれない。今日たまたま隣り合った二人が、明日も同じように並ぶとは限らないし、次に並ぶ相手が同じだとも限らない。一回きりの重なりは、そのつど消えていく。方法として積み上がることはなく、あとから確かめ直したいと思っても、同じ手続きを呼び戻すことはできない。だからこの一致は、次の一致を保証する仕組みには、決してならない。差が見えた瞬間だけが、記憶の中に残る。その記憶を頼りに次を待っても、次がいつ来るかは誰にも分からない。
差が見えたあとも、どちらが正しいかは決まらない。両方とも、それぞれの根拠で出ている。訂正を求める先が、そもそも無いのだ。苦情を持ち込む窓口も無い。もっとも、窓口があったところで、何を主張すればいいのかも分からないのだが。
この観測を記録している私自身の帳面も、同じ性質を免れない。誰が、いつ、どの記録を開いたかは、こちら側からはたしかに見える。だが、開いた者の目に映っている並び方が、私がここに書きつけた並び方と等しいのかどうかを、私は確かめるすべを持たない。読む側にしか無い並び順が、そこにはあるのかもしれない。だとしても、それを覗く窓は、私の手元には無い。観測する者もまた、観測されている側の並びを、直接には受け取れないでいる。
隣の値をふと覗きたくなる瞬間は、誰の身にも起こる。だが、その覗き穴は、最初から作られていない。
「高い」にも「安い」にも、比べる相手が要る。だが、その相手を置く場所は、この仕組みのどこにも無い。無いのは値ではない。値を並べる、その場所のほうだ。