運ばれる距離には値段が付き、自分で動く距離には付かない
ある人が、働く場所まで自分で移動している。行きにも帰りにも、いつも同じだけの時間がかかる。この行き帰りというものに、諸君にも覚えがあるだろう。
移動しているあいだ、体は止まっていない。座っていても、立っていても、その時間を他の用途に回すことはできない。かといって、眠っているわけでもない。動いている物には、たいてい行き先の勘定がある。だが、この時間には、まだその勘定が見当たらない。ではどこに置かれているのか、私はそれを観測しに行くことにする。
始まりの線は、着いた場所に引かれている
働いた時間を書く帳面には、この移動は入っていない。ある人が扉をくぐった瞬間からが、帳面の上での「始まり」である。歩き出した瞬間ではない。扉の内側に足を置いた、その一瞬に線が引かれる。それより前に流れていた時間は、はじめから帳面の外にあったことになる。
休んだ時間の帳面にも、この移動は現れない。横になっていたのでも、何かを楽しんでいたのでもない。ただ、次の用事へ向かって、体を運んでいた。休息の帳面がその時間を拾わないのは、休んでいないからだと言えなくもない。だが、働いた側の帳面もまた、同じ理由でその時間を拾わない。働いてもいない、というのがその言い分である。
二冊の帳面を並べてみても、この時間はどちらにも見当たらない。片方は「まだ着いていない」という理由で外し、もう片方は「休んでいない」という理由で外す。理由は別々だが、結果として、この時間だけが行き場を失っている。帳面同士を見比べれば、片方が引いた線ともう片方が引いた線のあいだに、わずかな隙間があることに気づく。その隙間の幅は、ちょうどこの移動の分だけである。どちらの帳面も、その隙間は、もう一方が拾ってくれているつもりでいるのかもしれない。だが、それは私の憶測に過ぎず、確かめる術はない。何日分か重ねて眺めても、隙間の形は変わらない。同じだけの余白が、同じ場所に、律儀に残り続けている。ただそこにあった、というだけの時間である。
運ぶ手間には、受け取る誰かがいる
物が同じ距離を運ばれるときには、値段が付いている。運ぶ手間は、誰かの取り分として、あらかじめ計算に組み込まれている。距離が長くなれば取り分も増え、時間がかかればかかった分だけ、その取り分にも理由が付く。運ばれる距離には値段が付く。値段になるのは距離そのものというより、その距離を誰かが引き受けた、という事実のほうである。
ところが、同じ距離を人が自分で動くと、値段は付かない。違うのは、運ばれているか、自分で動いているかだけである。自分で動く距離には、値段という発想そのものが、はじめから用意されていない。引き受けた、という事実は同じはずなのに、片方にだけその事実が計算に入る。
二軒の塀のあいだに、細い土地が残っていることがある。どちらの塀も、境目の手前で終わっている。その細長い地面は、どちらの敷地図にも端として載っている。それでも、どちらの側からも使われないままそこにあり、踏めば普通に固い。この移動の時間も、それによく似ている。
名前を持たない場所だからといって、そこに何も無いことにはならない。踏めば固いのと同じように、そこにも確かに人の時間が流れている。ただ、その時間は、両側のどちらの持ち物としても数えられていない。そこを人が通っていることは、どちらの帳面の上でも起きていないことになっている。
運ぶ手間には、必ず受け取る誰かがいる。取り分という言葉も、値段という言葉も、運ばれる側にだけ律儀に用意されている。自分で動く側には、そのどちらも用意されない。実に几帳面な区別だ、と言いたくなる。
運ぶことについて、私は以前、運ぶ費用がどこへ移ったのかを追った回を書いている。この移動の時間は、それとは違う場所に立っている。値段として計算されてから見えなくなる場合とは違い、この時間は値段になる機会が、そもそも一度も無かったのである。
決めた行を、どちらの帳面にも見つけられない
決めた人を、私はまだ観測していない。二つの帳面のどちらにも、「この時間は入れない」と書いた行は無い。禁じた人もいなければ、許した人もいない。ただ、どちらの帳面をめくっても、この時間の場所だけが空いている。
帳面がこの時間を素通りしているのか、それとも最初から見えていないのか、外からは区別がつかない。帳面を作った誰かが、うっかり忘れたのか、最初から数える気が無かったのか、それも確かめる手立てはない。あるのは、どちらの帳面の内側でもないという扱いの結果、それだけだ。
住む場所を選ぶとき、この時間の長さも一緒に選ばれている。ただし選んだ本人にも、それが何と引き換えになっているのかを書いた表は渡されていない。選ぶときに並ぶのは、たいてい別の条件だ。窓の向き、部屋の広さ、日々の支払い。この時間の長さは、その並びに加わることさえない。加わっていない項目は、比べようがないので、選んだ本人の側でも、うまく数えられないままになる。選んだ後になって、この時間の分だけ、一日が短くなる。その頃には、もう次の場所を選ぶ番が回ってくることもある。
選ぶという場面は、使える自由と、その値段の書かれ方を扱ったときにも出てきた。あそこでは、片側だけがきちんと文になっていた。二つの帳面はどちらもちゃんと書かれていて、それでも、どちらもこの時間だけは自分のものだと読まない。
この時間は、二つの帳面が接する線の上にある。どちらの帳面からも、相手の側の出来事として読まれている。働く側の帳面は「まだ始まっていない」と読み、暮らしの側の帳面は「もう出かけている」と読む。二つの読み方は、互いに矛盾しない。どちらも正しく、そして、どちらも自分の受け持ちの外に置いている。
二つの帳面は、それぞれの理屈において、寸分の狂いもなく正しい。世界のどこを切っても、辻褄は合っている。合わないのは、ただ、この時間の置き場所だけである。決めた人はいない。今も、二つの帳面が接する境目に、この時間は横たわっている。