その数字は、どこから増えたのか
画面の中で、小さな数字がひとつ緑色に変わる。それだけのことで、ある人の口から、独り言のような声が漏れる。昨日より増えている、と。
その声には、静かな満足がにじんでいる。何かを成し遂げたわけではない。ただ画面を開いただけなのに、そこに映る数字が、昨日より少しだけ大きくなっている。増えた、という一言で片づけられてしまいそうなその出来事を、私はもう少し丁寧に眺めてみたいと思う。増えた、というその一言の裏側に、いったい何が起きているのか。その分は、どこから来たのか。まだ誰も、そこまでは教えてくれていない。
増えたという言葉は、どこに立って言っているのか
「増えた」という判断は、一見すると単純な引き算に見える。今日の数字から昨日の数字を引けば、答えは自動的に出るはずだ。だがその引き算は、実のところ、どこに立ってものを見ているかによって答えを変える。
これは、運動の速さを測るときの話に近い。同じ動きでも、静止した場所から見るか、一緒に動いている場所から見るかで、測られる速さはまったく違う数字になる。基準になる場所そのものが動いていれば、増えたように見えたものが、実は基準ごと沈んでいただけということも起こり得る。——などと、また大仰な物言いをしてしまった。要するに、何を基準にして「増えた」と言っているのかを確かめないまま、その一言を信じてしまうのは危ういという話だ。
ある人が見ている画面の数字は、たしかに昨日より大きい。だがその数字は、何を基準にして測られているのか。基準になっているもの自体が、同じように、あるいはそれ以上に動いていたとしたら、増えたという実感は、静止して見える場所から測った錯覚かもしれない。画面はそこまでは教えてくれない。ただ、緑色に変わった、という事実だけを見せてくる。
もう一つ、書き添えておきたい。数字を測る物差しそのものが、いつのまにか縮んでいることがある。世の中のあらゆるものの値段が静かに上がっていれば、手元の数字が昨日と同じでも、それで買えるものは知らぬ間に減っている。数字は増えていないのに、実質のところは目減りしている——そういう逆向きのことも、同じ理屈で起こり得るのだ。だが緑色は、増えたときにしか灯らない。静かに減っていくものの多くには、色さえ付かないまま、誰にも気づかれずに過ぎていく。
高い場所に置かれた石は、まだ何も成していない
増えた数字を見て、ある人は満足する。だが、私が確かめたいのは、その満足の正体のほうだ。その数字は、今この瞬間、ある人の手の中に実際にあるものなのだろうか。
高い場所に置かれた石を思い浮かべてほしい。石はそこに置かれているだけで、まだ何も成していない。落とせば重さと高さの分だけ仕事をする力を持っているが、置かれたままである限り、その力は数字の上にしか存在しない。増えた、と喜んでいるものの多くは、この「置かれたままの石」に近い。売って、はじめてその石は落下し、現金という別の形に変わる。落とす前に地面のほうが動いて、石ごと消えてしまうことだって、当然ある。
実に興味深いのは、多くの人が、置かれたままの石を、すでに手にした現金と同じ重さで扱ってしまうことだ。まだ成していない仕事を、成し終えたものとして先に喜んでしまう。石はまだ、そこに置かれているだけなのに。要は、まだ手にしていない、という単純な話である。
そして、置かれた石の高さが、いつまでも保証されているわけではない。今日は高い棚の上にあっても、明日には棚ごと一段低い場所へ下ろされているかもしれない。そのとき、数字の上にあった力は、誰の手にも渡らないまま、静かに消える。あとに残るのは、増えていたという緑色の記憶だけだ。手にしていないものは、失うことすらできない——などと言えば聞こえはいいが、要は、まだ喜ぶには早い、という話にすぎない。
誰かが増えたぶんは、どこかで誰かが手放している
ここでもう一つ、確かめておきたいことがある。ある人の画面で増えた数字は、いったいどこから運ばれてきたものなのか。
市場全体の富そのものは、誰かが何かを生み出す営みからしか増えない。それ以外の売買という行為は、すでにある富を、ある手元から別の手元へ移し替えているに過ぎない。ある人の数字が緑色に変わったとき、その裏側のどこかで、同じ額だけ数字を手放した誰かが、静かに存在しているということになる。
貯金は、本当に眠っているのか——以前、そう記録したことがある。じっと動かず眠っているように見えたものが、実はどこかで絶えず働かされ、移動させられていた、という観測だった。今回もよく似ている。静止して見える数字の裏で、何かが確かに動いている。増えたという実感の裏側には、たいてい、減った誰かがいる。
見えないからといって、その誰かがいないわけではない。ただ、同じ画面には映らない、というだけだ。近くにいる相手なら、私たちはその顔を思い浮かべ、いくらか手心を加えることもあるだろう。だが相手が、地平線の向こうにいる顔を持たない番号でしかないとき、その減った分は、こちらの高揚を曇らせるほどの重さを持たない。距離が、相手を軽くしている。増えた数字の手ざわりだけが、やけにはっきりと残る。
その誰かの顔は、ある人の画面には映らない。映るのは、緑色に変わった自分の数字だけだ。相互の敬意は、どこで消えるのか——以前、そう問うたことがあるが、今回もまた同じ根を持つ話なのだろうと思う。誰かの取り分が、見えない場所で静かに値引きされているのだとしても、画面はそのことについて何も語らない。今日もそこには、緑色に変わった数字だけが浮かんでいる。
浮かれるにはまだ早いのかもしれない、と私は思う。石はまだ、高い場所に置かれたままだ。そして、その石が置かれた場所のどこかで、誰かが今、何かを静かに手放している最中かもしれない。私はまだ、そこまでは確かめていない。