貯金は、本当に眠っているのか
通帳をひらく。あるいは画面の中の、預金残高という数字を眺める。私たちはそれを、安全な場所にしまっておいたお金だと思っている。働きもせず、減りもせず、ただそこでじっと、自分が引き出しに来る日を待っていてくれるもの。今日は、その「眠っている」と思っているお金が、いま実際どこにいるのかを観測してみようと思う。
預けたお金は、金庫で眠っていない
銀行にお金を預ける。多くの人は、そのお金が銀行の奥の頑丈な金庫に積まれ、自分が引き出しに来る日まで、そこで静かに待っていると思っている。だが、実際にはそうではない。預けられたお金の大半は、預けたそばから、別の誰かのもとへ貸し出されていく。
銀行は、預かったお金のうち、ほんのわずかだけを手元に残し、残りの大部分を次の誰かへ貸し出す。もっとも、いまそこにある預金のほうも、もとをたどれば、どこかで誰かが借りたときに生まれたものだ。どちらが先かはさておき、口座の残高という数字がそこにある一方で、その数字が指していたはずのお金そのものは、もう銀行の中にはない。今ごろ、会ったこともない誰かの家になり、車になり、誰かの商売の元手になって、世界のどこかで働いている。
残高という数字が意味しているのは、金庫の中に置かれている何かではない。返してくれと言われたら返す、という銀行の約束のほうだ。私たちは物を預けたつもりでいて、実際に手元に残っているのは、約束の記録なのである。
残高は静止画、中身は流れている
川を思い浮かべるといい。橋の上から見下ろすと、川はいつも同じ形でそこにある。水位も、川幅も、昨日と変わらない。だが、いま目の前を通り過ぎている水は、ほんの一秒前にそこにあった水とは、もう別の水だ。同じ姿を保ったまま、中身は絶え間なく入れ替わっている。
預金残高も、これによく似ている。通帳の数字は、静止した一枚の写真のように、いつも同じ顔をしている。だが、その数字が指し示すお金の中身は、川の水と同じで、片時もとどまっていない。預けられては貸し出され、返されてはまた貸し出され、絶えず人から人へと流れ続けている。——物理の言葉を借りれば、これは動的平衡とでも呼ぶべき状態だ、などと大層に言ってみたが、要するに、止まって見えるものほど、その内側では休まず動いている、という話である。
だから、全員では引き出せない
このことには、ひとつの帰結がある。もし、ある銀行に預けている人々が、いっせいに窓口へ押しかけ、自分のお金を今すぐ全額返してくれと言ったら、どうなるか。銀行は、応じることができない。預かったお金の大半は、すでに遠くの誰かのもとへ流れていて、手元には戻ってきていないからだ。
私たちの「いつでも引き出せる」という安心は、実のところ、全員が同時にはそれを試さない、という暗黙の約束の上に、かろうじて成り立っている。一人ずつ、ばらばらの時間に出し入れしているあいだは、流れは釣り合い、何ごとも起きない。だが、その釣り合いがいちど崩れ、皆が同じ方向へ殺到した瞬間、静かだった水面は一変する。私たちが安心と呼んでいたものは、つまるところ、その平らな水面のことだったのだ。
安心は、誰かのもとにある
預けられたお金は、一か所にとどまらない。誰かの口座に入り、そこからまた貸し出されて、次の誰かの手元へ移っていく。生まれた端から、人から人へと巡り続けている。私たちが「持っている」と思っているものは、正確には、いま誰かのところで働いている何かを、いつでも呼び戻せるという約束のほうだ。
そして、その預金をいま借りている「誰か」は、たいていの場合、預けた本人が顔も名前も知らない人である。この地上には八十億の人間がいて、私たちの安心をこの瞬間に支えているのは、そのうちの、会ったこともない一人なのだ。私たちが安心して眠る夜の裏側で、見知らぬ誰かが、その安心の原資を借りて、何かを動かしている。
奇妙なのは、その誰かの側からも、こちらの顔は見えていないということだ。借りた人は、自分の家や商売の元手が、どこの誰の安心と背中合わせになっているのかを知らない。互いに相手を知らないまま、片方の眠りが、もう片方の暮らしを支えている。
それでも、預けていい
念のために言っておくと、預けるのをやめろ、という話ではない。お金が一か所で眠らず、こうして誰かのもとへ巡っていくからこそ、家が建ち、商売が回り、今日もどこかで何かが新しく始まっている。眠らないお金は、それ自体、悪いものではない。むしろ世界は、その流れによって動いている。
ただ、ひとつだけ。通帳にあるその数字は、金庫の奥で身じろぎもせず待っているわけではない。今この瞬間も、どこかの誰かの暮らしの中で、休みなく働いている。私たちの安心は、止まっていることによってではなく、流れ続けることによって保たれている。
その流れに名前をつけるなら、信頼とでも呼べばいいのかもしれない。見えない、けれど確かにそこにある。