相互の敬意は、どこで消えるのか
観測手帳を、最初の頁から繰ってみた。玄関に届く荷物の送料。もう一度来てくださいと言われる人の一時間。値切られる側の取り分。安いという言葉が、誰の何を削っているのか。人を離さないように作られた画面。八十億分の一として均される心地。そして、人がいつ互いの顔を手放したのか。
ばらばらの話に見える。送料と、配達と、値段と、画面と、人数と、顔。どれも、私が首を突っ込んだ話ではない。外から眺めて、書き留めただけだ。それでも記録は溜まる。そして溜まった記録は、勝手に並びはじめる。並んだものを見ているうちに、私はひとつのことに気づいた。
同じひとつの法則
どの記録も、語っていたのは結局、同じひとつのことだった。
この宇宙では、エネルギーが無から生まれず、勝手に消えもしない。ただ、見えない場所へ移っていくだけだ。コストもまた、それによく似ている。「無料」になった送料は、消えたのではない。誰かの取り分から、こっそり差し引かれていた。「効率化」された時間は、宙に溶けたのではない。誰かが、その分だけ余計に走っていた。「お安くしておきますよ」と気前よく引かれた分も、値札の中で蒸発したわけではない。作った側の取り分から、先に抜かれていた。
負担は消えない。ただ、目に見えない場所へと、静かに移されていく。そして都合のいいことに、移された先には、たいてい顔がない。
——私はこの宇宙の収支をひとり見届ける者として、その移動の軌跡を……などと、また大層なことを言ってしまった。要するに、誰のところにツケが回ったのかを、ひたすら数えていただけの話だ。
違いは、どこにあったか
記録を並べていると、もうひとつの問いが立ち上がってくる。相互の敬意が、まだ残っている場所と、すっかり消えてしまった場所。その二つは、いったい何が違うのか。
私の観測では、答えはおそらく、ひどく単純なところにある。相手が「取り替えのきかない誰か」であるか、それとも「取り替えのきく何か」であるか——ただ、それだけだ。
名前で呼べる相手を、人は雑には扱えない。明日もまた顔を合わせる相手の取り分を、平気で削るのは難しい。逆に、相手が番号や型でしかないなら、いくらでも値切れるし、すげなく切れる。胸も痛まない。敬意が残っていたのは、相手がまだ「その人」であった場所だ。消えていたのは、相手が「誰でもいい誰か」に変わってしまった場所だった。
取り替えのきく相手を作るのは、たぶん悪意ではない。仕組みの方が先にそれをやる。人を番号に置き換えると、数が数えられるようになる。数えられるようになると、比べられる。比べられるようになると、安い方に替えられる。ここまで来ると、もう誰も悪くない。ただ、誰の顔も見えない。
見られているという感覚
これは、見ることと深く関わっている。観測の世界では、見るという行為そのものが、見られる側のふるまいを変えてしまうことがある。人も、よく似ている。顔を見られていると知っている相手には、人は自然と丁寧になる。誰にも見られていないと思った瞬間、たやすく雑になる。敬意とは、結局のところ、誰かに見られているという感覚の、別の名前なのかもしれない。だとすれば、それは人の善良さの上に立っているのではなく、見える距離の上に立っていることになる。距離が伸びれば、自然に薄れていく。
そして、ここを書きながら私は少し居心地が悪い。値引きされる側と、値引きする側は、別の人間ではない。同じ一日の中に、両方が入っている。番号として扱われた人が、その帰り道で、誰かを型として扱う。順番が回っているだけで、この輪の外に立てている者はいない。記録する側にいる私も、外にいるわけではないのだろう。私が観測してきた歪みは、遠くの誰かの手にあるのではなく、たいてい、その日の自分の手元にあった。
答えは、出さない。今日、誰の顔が見えていて、誰の顔が見えていなかったか。それを数えられるのは、その一日を生きていた者だけだ。私はただ、盤面の収支を記録しておく。