間隔を書く欄は、最初から無かった
並んだものを前にして、人がまず見るのは順番だ。何が上で、何がその次に来るのか。それは一目で分かるし、覚えるのに苦労もいらない。分かりやすい形は、たいてい速く広まる。そして速く広まった形は、いつのまにか「もともとそういう並びだった」という顔をしはじめる。形が先に届いて、中身は後から追いかける。
ある観測記録に、上から順に一つずつ番号のついた並びがある。私はそれを机の上に広げて、しばらく見ていた。よくできた形だと思う。どこに何があるのか、迷う余地は残っていない。見た者が同じように読み取れて、読み違えようがない。
ただし、その並びの上のほうにある二つは、ほとんど重なっていた。下にある二つのあいだは、そこだけ別の並びのように開いていた。差の大きさそのものは、確かにそこにある。誰かが後から作り出したものではない。並べる前から、そこにあった。
上の二つも下の二つも、同じ一つ違いとして並ぶ
それなのに、並びの上では、その二組はどちらも同じ形をしている。上の二つは一つ違い。下の二つも一つ違い。上のほうの一段も、下のほうの一段も、同じ厚さの段として積まれている。ごくわずかな差と、比べものにならない差が、まったく同じ見た目でそこに置かれている。並びが嘘をついているのではない。この形には、これしか言えない。
順序という形が持っているのは、向きだけだ。どちらが先で、どちらが後か。それは書ける。だが「どれだけ離れているか」を入れておく場所を、この形はそもそも持っていない。向きの軸はあるのに、広さの軸が無い。次元が一つ足りないのだ。
——と、つい構えた言い方になった。つまり、並びには「どれだけ違うか」を書く場所が無い。難しいことは何も言っていない。
だから見る側は、順番だけを受け取る。受け取ったものの中に、間隔は入っていない。ここは正確に書いておきたい。間隔が丸められたのではない。そういう操作は、元の値がどこかに書かれていて初めて起きる。書く場所そのものが無いところでは、その手前で話が終わっている。順番という形に移せば、残るのは順番だけだ。
増えたのは段の数のほうで、間隔ではない
諸君、ここに一つ、試してみた記録がある。並びが大まかすぎるのなら、もっと細かくすればよいのではないか——そう考えた跡が残っている。もっともな発想だと思う。段の数を増やしてみたのだ。私も、それで何が戻るのかを見たかった。
細かく刻んでも、間隔は戻らなかった。増えたのは段の数であって、間隔の情報ではない。刻みが細かくなれば、一つ違いの中身もその分だけ小さくなる——そう思いたくなるが、そうはならない。新しくできた隣り合わせも、やはり同じ「一つ違い」の顔をして並ぶ。
どこが詰まっていて、どこが開いているのか。それは、刻み直した並びにも書かれていない。並びは長くなった。それでも、私が知りたかったことは一行も増えていない。刻む前に無かったものは、刻んだ後にも無い。
段に振り分ける作業が先に立って、振り分けきれなかったものは数のほうに現れない。以前、私はそういう記録を残した。あの回で外へ出ていたのは、一つの段に納まらないほど細かい違いだ。こちらで書かれていないのは、隣り合う二つのあいだの広さである。細かさのほうは、段を細かくしていけば拾えるだろう。広さのほうは、段をいくら増やしても出てこない。
並べた側は、差の大きさを知っていた。上の二つが紙一重だったことも、下の二つが遠く離れていたことも、手元では見えていたはずだ。それでも並びには載らない。書かなかったのではなく、最初から書く欄が無い。知っている者と、書ける場所とが、そこで切り離されている。並びを写し取れば、番号は全部写る。二つのあいだがどれだけ空いていたかは、写しようがない。
並びは軽く、そこに間隔は積まれていない
私の帳面も、章に番号を振って並べてある。第何回があり、その次に第何回が続く。だが隣り合う二つの章がどれくらい違うのかを書く欄を、私は用意していない。日常の裏側を見ている側のつもりでいて、自分の並びには同じ欠落がそのまま残っている——と、書いてみてから少し照れくさくなった。実際のところ、そんな欄が要るとすら思っていなかった。
もちろん「僅差でした」と言葉で足すことはできる。誰にでもできる。ただしその一言は並びの外側に置かれるので、並びが誰かの手に渡って運ばれていくとき、一緒には付いてこない。注釈は、置かれた場所から動かない。並びだけが先へ行く。実に律儀な留守番だと思う。
並びは軽い。短く、覚えやすく、そのまま人に渡せる。だから遠くまで行く。私は「順位をつけるな」と言っているのではないし、並べた人を責めてもいない。並べるという作業は速く、分かりやすく、多くの場面で確かに役に立っている。ただ、その分かりやすさと引き換えに、間隔が落ちた。得たものと落ちたものが、一対になっている。軽さと間隔は、どうやら一緒には運べない。
差し出されるものの並び方そのものが、こちらの動きを受けて偏っていく。これも、私が別のときに観測した並びだ。あちらで動いていたのは、並びそのもののほうだった。この記録の並びは動かない。全部そこに並んだままだ。それでも、間隔を置く場所は最後まで現れない。あちらは動きの話で、こちらは形の話だ。同じ「並び」という言葉で呼ばれていても、私が見ているのは別の欠け方である。
欄があって空いているなら、空いていることは見える。何かが収まる予定の場所として、目に映るからだ。だが欄そのものが無いとき、足りないという感じは起きない。何が欠けているのかを指す手がかりが、読む側の手元には無いままだ。上の二つのあいだが、どれだけ狭かったのか。それを指すものは並びの上に一つも無く、私にも読めない。