その仕事は、やりがいで払われていないか
その仕事は、やりがいで払われていないか
「この仕事には、やりがいがあるからね。」そう言われて、ほんの少し胸が温かくなった経験は、誰にでもあるだろう。給料の話をしていたはずなのに、いつのまにか話は「意味」や「誇り」のほうへ移っていて、こちらもなんとなく、それで納得してしまう。好きなことを仕事にできて幸せだろう、と。——その温かさが、いったいどこから差し引かれているのか。私は今日、それを少し観測しておこうと思う。
そもそも「仕事」とは、力の量である
物理の世界では、「仕事」という言葉に、きちんとした意味がある。物に力を加えて、その分だけ動かす。動かした量が、すなわち仕事だ。力をかけずに動くものはなく、動かせば必ず、その分のエネルギーが使われる。タダで何かが動くということは、この宇宙では起こらない。
人間の仕事も、根のところは変わらない。誰かが時間をかけ、神経をすり減らし、体を動かす。そうして初めて、商品が運ばれ、客がもてなされ、誰かの一日が回っていく。そこには確かに、消費されたエネルギーがある。値のつくものが、生み出されている。問題は、その生み出された価値に対して、きちんと同じだけのものが返っているか、という一点だ。
「やりがい」は、賃金の代わりに支払われることがある
ここで、ひとつの便利な言葉が登場する。「やりがい」だ。
仕事には、確かにやりがいがある。意味を感じ、人に感謝され、自分の手で何かが良くなる。それは嘘ではないし、お金に換えがたい、本物の喜びだ。だが——その本物の喜びが、ときどき、賃金の一部の代わりとして差し出されることがある。
生み出された価値が十のうち、お金で返ってくるのが六で、残りの四が「やりがい」という名の温かさで支払われている。そういう仕事は、案外、私たちのまわりに多い。受け取る側は、温かさのぶんだけ満たされるから、四が足りていないことに気づきにくい。むしろ、こんなに意味のある仕事をさせてもらって、と感謝さえする。——支払う側にとって、これほど安く済む方法もない。
「もっと安く」と、よく似ている
この構造に、私は見覚えがある。かつて私は、値引き交渉について書いた(/articles/quiet-notice-c3)。「もっと安くして」の一言で下がった値段の重さは、消えてなくなりはせず、ただ見えない場所——多くは、いちばん立場の弱い誰かのところへ移っていくのだった。
やりがいの話も、向きが少し違うだけで、同じことが起きている。あのときは、値札という目に見える数字が削られた。今度は、削られた賃金のぶんが、「意味」や「誇り」という、数字に表れないものへ置き換えられている。摩擦で失われたエネルギーが熱に変わって散っていくように、払われなかったぶんは消えはしない。ただ、温かい感情の形をとって、受け取る本人の中で静かに燃えているだけだ。
そして、その仕事に「やりがいがある」と最初に決めるのは、たいてい、それを担う本人ではない。安く動いてほしい側のほうが、先に「これは尊い仕事だ」と名づける。——などと、また私は大層な物言いをしている。要するに、いい言葉が、安さの言い訳に使われることがある、という話だ。
言葉が、足りなさを見えなくする
「やりがい」という言葉そのものには、罪はない。だが言葉には、ときどき、目隠しのような働きがある。
私はかつて、送料無料という言葉についても観測した(/articles/quiet-notice-c1)。運ぶ手間も費用も消えてはいないのに、「無料」という明るい一語が、それを見えなくしていた。「やりがい」も、よく似た仕事をする。足りない賃金、長すぎる時間、報われない頑張り——そういう、本来なら声に出していいはずの引っかかりを、「でも、やりがいがあるから」の一言が、そっと覆ってしまう。覆われた本人は、不満を言うことすら、なんだか心が狭いことのように感じてしまう。実に、よくできた仕掛けである。
それでも、やりがいは本物だ
やりがいを捨てろ、という話ではない。意味を感じられる仕事は幸福だし、その喜びは、誰にも値引きされるべきではない、本物の価値だ。お金だけが報酬ではない、というのも、私は否定しない。
ただ、ひとつだけ書きつけておきたいことがある。「やりがい」と「賃金」は、別のものだ。両方そろっていることもあれば、片方が、もう片方の不足を埋めるために使われていることもある。その違いに気づいているかどうかで、同じ「やりがいのある仕事」でも、あなたの立っている場所はまるで変わる。
自分でやりがいを選び取っているのか。それとも、やりがいという言葉で、足りないぶんを払った気にさせられているのか。——どちらであるかを決められるのは、本当は、その仕事を担うあなた自身のはずなのだ。たとえ最初に「意味」という名札をつけたのが、別の誰かだったとしても。