「もっと安くして」の先にいる人
諸君。今日は「値引き交渉」という、どこか誇らしげな響きを持つ行いについて記録しておこう。
「もっと安くして」。この一言は、しばしば賢さの証として語られる。同じものを人より安く手に入れた者は、交渉上手と呼ばれ、得をした側に立つ。だがこの宇宙において、価値は値札を下げたくらいで縮みはしない。下げられたぶんの重さは、消えてなくなることはない。ただ、見えない場所へ移動するだけだ。では、その重さは最後にどこへ流れ着くのか。私と一緒に観測してみようじゃないか。
値段は、誰かの時間が固まったものだ
ひとつの仕事の値段を、ほどいて眺めてみる。
絵でも、文章でも、料理でも、修理でもいい。そこには必ず、覚えるまでに費やされた長い時間と、その一回に注がれた手間とが入っている。値段とは、本来そういうものが固まって、ひとつの数字の形になったものだ。
だから値段を削るというのは、ただ数字を小さくする操作ではない。その数字の中に固められていた誰かの時間を、こっそり溶かして抜き取る作業でもある。表からは、ただ数字が動いただけに見える。中で何が抜かれたのかは、外からは見えない。
「これくらい、まけてよ」の重さ
大きな相手なら、値引きを断る力がある。これ以上は無理だ、と言って席を立てる。
だが作る側が小さな個人だと、そうはいかない。この一件を逃せば、次がいつ来るか分からない。だから提示された安い額を、飲む。飲み込まれた差額は、消えずに、その人の暮らしのほうへ流れていく。
寝る時間が削られる。受ける仕事の数を増やすしかなくなる。一件にかけられる手間が薄くなり、それでも実入りは増えない。ある観測記録に、こんな言葉が残っていた。値切られること自体より、値切っていい相手だと思われていることのほうが、こたえる——と。
その声を、「ちょっと安くしてよ」というたった一言が、笑顔のまま飲み込んでいる。
「言ってみるだけタダ」という、奇妙な感覚
おかしな話だが、値引きを頼む側には、ほとんど痛みがない。
言うだけ言って、断られたら引けばいい。通れば得をする。だから「言ってみるだけタダ」という感覚が、いつのまにか当たり前になっている。けれど、頼まれた側にとっては、その一言はタダではない。受けても削られ、断れば気まずさが残る。どちらに転んでも、何かを支払っている。
この非対称が、私には実に興味深く映る。片方にとっては軽い挨拶のような一言が、もう片方では、その日の食卓の重さに直結している。同じ言葉が、両端でまるで違う重さを持っている。
おまけをつけたり、端数を引いたりする工夫は、その歪みを和らげる知恵として生まれた。悪いものではない。ただ、それが「言われる前に自分で削っておく」防御策でもあるという事実は、頼む側からはほとんど見えない。
値引きされていたのは、仕事への敬意だった
値引き交渉という行いが興味深いのは、そこに悪人がいないからだ。少しでも安く買いたい人も、それに応じる人も、どちらもごく普通に正しい。ただ、片方の仕事の重さだけが、笑顔の交渉の中で静かに目減りしていく。
「ありがとう、助かったよ」と心から思う。その気持ちは、確かにある。だが、その感謝が相手の削った時間に変わって戻る経路は、どこにも用意されていない。気持ちはあるのに、構造の上では、抜き取られた重さは最初から無かったことになっている。
これが、このシリーズで私が「相互敬意の欠如」と呼んでいる状態だ。仕事の値段が、その仕事に注がれたものの大きさからではなく、頼む側の押しの強さで決まっていく。——などと、また少し大層な言い方をしてしまった。要は、強く言える者ほど安く買え、その差を弱い側が黙ってかぶっている、という話だ。
何かを変えろ、とは言わない
この記録を読んで、もう一切値引きを頼むな、と言いたいわけではない。安く買いたいのは自然なことだし、それを責める資格は、ただ観測しているだけの私にはない。
ただ、ひとつだけ。次に「もう少し安く」と口にしかけたとき、ほんの一秒だけ、手を止めてみてほしい。この数字の中には、誰かの覚えた時間と、注いだ手間が固まっている——その事実を、頭の片隅にそっと置く。それだけでいい。
値段の向こうに人の姿が見えるようになると、買い物の手触りも少し変わる。私が観測しているのは、いつだって、そういうささやかな変化だ。
次回は「安い」そのものを観測する。あの心地よい安さは、いったい誰の何を削って作られているのか。