あなたが画面を見続けているとき、何が起きているのか
ふと顔を上げると、思っていたよりずいぶん時間が経っている。最初は、一本だけ見るつもりだった。それなのに、一本は二本になり、二本はいつのまにか数えるのをやめていた。画面の中はずっと面白く、外の時間だけが、知らない間に静かに減っていた。
今日観測しておきたいのは、その静かに減っていったほうの時間だ。誰かに奪われたわけではない。脅されたわけでも、騙されたわけでもない。ただ面白いものを面白く見ていただけで、終わってみると、手元から確かに何かが減っている。
止めるには、力がいる
一本が終わると、次がひとりでに始まる。こちらは「次を見る」と決めたわけではない。ただ、止めなかっただけだ。よく見ると、この仕組みは「見る」という判断を私から取り上げ、「やめる」という判断だけを、そっと手元に残している。
止まっているものは止まり続け、動いているものは動き続ける。転がり出したものを止めるには、外から力を加えるしかない。その力——つまり「もうやめよう」という小さな意志を、こちらが自分から出さない限り、再生はどこまでも続いていく。設計した側は、この慣性を、ちゃんと味方につけている。放っておけば続くものを作り、止める手間のほうだけを、こちらに押しつけているわけだ。
摩擦が、丁寧に取り除かれている
かつて、何かを見続けるには、いちいち手間がかかった。立ち上がって、入れ替えて、選び直す。その一つひとつが、ささやかな「我に返る」きっかけになっていた。今は、その手間がきれいに消えている。一本の終わりと次の始まりのあいだに、段差がない。終わりが、終わりの顔をしていない。
おすすめも同じだ。私が何を好むかは、私より先に、向こうが知っている。考える前に、次の一皿がもう目の前に置かれている。選んでいるようでいて、私は、並べられたものの中から手を伸ばしているだけなのかもしれない。
そして、終わりという区切りそのものが、少しずつ消えていく。下へ下へとたどっていけば、画面はいつまでも続きを差し出してくる。底が見えないように作られた井戸を覗き込んでいるようなもので、どこまで行っても、もう一段だけ先がある。私が自分の手で「ここまで」と線を引かないかぎり、この井戸に底はない。区切りを消すというのは、つまり、こちらが我に返る瞬間を、一つずつ取り上げていくということだ。
見ているのか、見られているのか
ここで、ひとつ思い出しておきたいことがある。これらの多くは、無料で差し出されている。では、これだけ手の込んだ仕組みを、誰が、何のために、ただで回しているのか。
答えは、たぶんこうだ。差し出されている商品は、画面に映るもののほうではない。商品は、それを見ている私の時間と、私の注意のほうだ。私がどれだけ長くそこに留まるか——それが値踏みされ、どこかへ売られている。だとすれば、私は客のつもりで席についていて、実のところ、棚に並べられている品物の側だったことになる。実によくできた配置だと、半ば感心しながら観測している。
しかも厄介なことに、時間は、削られた取り分のようには戻ってこない。お金なら、また稼げばいい。だが、画面に溶けた一時間は、もう一度握り直すことができない。
——などと観測者ぶってみたが、白状すると、私自身も、気づけば次の一本に手を伸ばしている。これは、外から眺めて済む話ではないらしい。
奪われた、とまでは言わない
例によって、私は、見るのをやめろと言いたいわけではない。面白いものは面白いし、その時間に救われている人だって、確かにいる。一日の終わりに、何も考えず画面に身を預けるのは、ささやかで正当な休息だ。それを取り上げる権利は、棚の外から眺めているだけの私にはない。
ただ、ひとつだけ記録しておく。
次に誰かが顔を上げて「もうこんな時間か」とつぶやくとき、その消えた時間は、どこにも消えていない。楽しんだのは、確かだ。だが、まったく同じ一時間で得をした誰かが、画面のずっと向こうにもいる。その両方が同時に成り立っている。私が観測しているのは、いつだって、そういう小さな視界の変化でしかない。
——ところで。ここまで私は、律儀に「一本」だの「画面」だのと、ずいぶんもったいぶった呼び方をしてきた。正体を明かせば、なんのことはない。親指で上へ上へと弾くたび、数十秒の短いものが次から次へと湧いて出る、あの画面のことだ。気がつけば、今日いちばん熱心に観測していたのは、世界の片隅に潜む歪みではなく、その画面のほうだった。世界を観測する者を名乗っておきながら、私もまた、しっかり一人分の時間を、どこか遠くの誰かの得へと、上機嫌で溶かして渡していたわけである。