その仕組みは、あなたを一人として数えていない
ある窓口に、用があって連絡をする。すると、まず番号を聞かれる。名前ではなく、番号だ。こちらが誰であるかより先に、こちらが「何番目の誰か」であることを求められる。順番に処理されていくあいだ、私はしばらく、自分が一人の人間であることを、そっと脇に置いておくことになる。
今日観測しておきたいのは、その番号のほうだ。仕組みの側に立ってみると、一人の人間がそこでどう数えられているのかが見えてくる。名前で呼ばれるか、番号で呼ばれるか。その差は、どうやら人柄の問題ではないらしい。
一人ずつは、見ていられない
考えてみれば、無理もない話ではある。この地球には、八十億の人間がいる。その一人ひとりを、名前で覚え、事情をくみ、機嫌をうかがって相手をする——そんなことは、どんな仕組みにもできない。だから仕組みは、賢いやり方を選ぶ。一人ずつ見るのをやめて、全体だけを見るのだ。
気体を思い浮かべるといい。部屋を満たす空気は、数えきれない粒の集まりだ。その一粒がいまどこを飛んでいるのか、誰も追いはしない。追う必要がないからだ。代わりに、温度と圧力という、全体をならした数字だけを見る。それで用は足りる。私という一粒が今日どこで何を思ったかは、仕組みにとって、追う意味のない情報だ。意味があるのは、八十億をならした先に出てくる、平らな数字のほうである。
不思議なもので、たった一人の明日の行動は、誰にも当てられない。ところが百万人がどう動くかは、驚くほど正確に言い当てられる。粒が増えるほど、それぞれのばらつきは打ち消し合い、全体は滑らかになっていく。だから仕組みは、私という個人には関心がない。関心があるのは、私を含んだ大きな塊が、どちらへ流れるか、それだけだ。——こう書くと薄情に聞こえるが、効率という一点では、実に理にかなっている。
その平らさは、思いのほか身近なところに顔を出す。どんなに困って、言葉を尽くして助けを求めても、返ってくるのは、たぶん誰に対しても同じ文面だ。私という固有の事情に宛てて書かれたように見えて、その実、八十億のうちの誰が同じ場所に立っても、寸分たがわず同じものが差し出される。不親切なわけではない。ただ、その親切は、私という一人にではなく、私のような「型」に向けて、あらかじめ用意されている。
名前で呼ばれる、ごく一部
ところが、だ。同じ仕組みの中をよくよく覗いてみると、均されずに済んでいる人が、ごく一部だけいることに気づく。
ある種の場所では、客は番号ではなく、名前で迎えられる。事情は先回りして覚えられ、用件は待たされることなく運ばれる。専任の誰かがつき、その人だけのために時間が割かれる。八十億分の一ではなく、たしかに一人の人間として、そこに座っている。
では、この二つを分けているものは何か。生まれでも、人柄でも、ましてや運でもない。たいていの場合、答えはもっと素っ気ない。一人として扱われるための席は、多くの場合、お金で買えるようになっている。多く払う者は粒の塊から引き上げられ、残りは、ならされた数字の中にとどまる。丁寧さや個別の扱いというものは、いつのまにか、無料では手に入らないものになっていた。
つまり、この世界には二種類の数えられ方がある。一人ずつ数えられる側と、まとめて数えられる側だ。そして自分がどちらにいるのかは、番号を告げられた時点で、たいてい、もう薄々わかっている。
均されること、それ自体は
念のために言っておくと、私は、均すこと自体を責めたいわけではない。八十億を一人ずつ相手にするのは、本当に無理なのだ。ならして扱うからこそ、安く、速く、誰の手にも届く。私もその恩恵の中で、今日も快適に暮らしている。均すという仕組みがなければ、そもそも多くのものが回らない。
ただ、消えたものはある。一人ずつ相手をする手間は、蒸発したわけではない。誰にでも当てはまる呼び名と、誰にでも当てはまる文面に姿を変えて、静かにこちら側へ移されただけだ。事情を説明し直す手間、伝わらないまま飲み込む手間——それは、均された側が一人で持っている。
同じ世界の片隅では、名前で迎えられている誰かがいる。その差を、怒る必要はない。ただ、見えているのと見えていないのとでは、同じ番号を呼ばれても、世界の手触りが少しだけ変わる。私が観測しているのは、いつだって、それくらいの小さな差でしかない。
——と、ここまで平らな数字の外側から、ずいぶん偉そうに書いてきたが。この記録を書いている私自身、どこかの仕組みから見れば、名前のない一粒として数えられている口だろう。観測する者もまた、誰かの温度と圧力の一部である。